令和5年7月から8月にかけて開催した第21回発掘速報展「掘ったほ!下関2023」では、「調査員イチ推し!出土品選手権」と銘打ったコーナーを設けました。

これは、当館の学芸員と文化財保護課の発掘調査担当者の10名が、下関市内の数ある遺跡出土品のなかから選び抜いた「推しの1点」を展示し、ご観覧の皆様へ会場でお気に入りの出土品に投票してもらう企画としたものです。

会期中の出土品10点に対する総得票数は859票でした。ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました!
ここに、その結果をお知らせします。みなさまが投票された”お気に入り”の出土品は何位だったでしょうか!?

投票結果



1位 吉母浜遺跡よしもはまいせき青銅製十一面観音像せいどうせいじゅういちめんかんのんぞう(得票数:194票)

【遺跡の場所】下関市大字吉母
【時   代】鎌倉時代後期から南北朝時代(14世紀:今から約600~700年前)
【所 蔵 先】下関市教育委員会
【基 本 情 報】吉母浜遺跡は市域山陰側の響灘に面した吉母地区の海沿いに所在します。遺跡は北西から南東に弧状に連なる海岸砂丘の後背地に立地します。遺跡からは弥生時代と中世の人骨が出土する墓が見つかっています。今回紹介する青銅製十一面観音像は、中世、砂丘上に掘り窪め造られた素坑のお墓(土坑墓)から発見されたものです。土坑墓には成年の女性が葬られており、保存状態の良い人骨がそのままのこっていました。観音像はこの人骨の後頭部あたりに置かれていました。3.4㎝ほどの青銅製の鋳造の小像ではありますが、顔の表情や耳、衣のシワなどを明確につくり出してしています。また所々に鍍金の跡があるため、当初は像全体が金メッキされていたと思われます。

中原さん

推しコメント

この様な小像自体も珍しく且つその形容も「小像とも思われない力強さと造形的な巧みを示している」と称され、希少性からも造形的にも貴重です。似たような小像が、他方では指定文化財とされる事例もあります。ただし、それ以上に惹きつけられるのは、この小像に関わる物語が想像できるところです。

この小像が出土した墓からは、大変保存状態の良い女性人骨も残されていました。その埋葬姿勢は、両手を胸の上であわせ両足を揃えた状態でした。それは、あたかも仏に祈りを捧げた様な姿勢で葬られていました。


このことに関連して注目することがあります。それは、吉母浜遺跡の近くには十一面観音菩薩を祀る真言宗寺院の黒嶋観音があり、南海の彼方にある観音菩薩の住処と言われる「補陀落山(ふだらくさん)」信仰と関係も一説として唱えられていることです。


これはわたしの考えですが、葬られたこの女性は、生前その黒嶋に浄土を重ね合わせ、朝に夕にこの観音像を拝んだ深い信仰心の信仰心の深い人物で、きっとこの小像と浄土へ向けての旅路に連れたったのだと想います。一つの考古資料でここまで想像できる例もなく、わたしが推す理由でもあります。

2位 高野遺跡たかのせき子持勾玉こもちまがたま(得票数:142票)

【 遺跡の場所 】下関市豊浦町大字川棚字高野
【 時   代 】古墳時代後期(6世紀後期/約1,500年前)
【 所 蔵 先 】下関市教育委員会 豊浦教育支所
【 基 本 情 報 】高野遺跡は、下関市豊浦町川棚に所在する鬼が城山系の一つ笠ヶ岳から張り出す川棚平野と響灘を一望できる舌状台地に位置します。この台地上に形成された水田地帯の県営ほ場整備事業に伴い、旧豊浦町と山口県埋蔵文化財センターが共同で平成7年~9年まで3カ年にわたる本発掘調査を実施しました。調査成果から、弥生時代から室町時代まで、各時代を通じて響灘沿岸の重要な拠点集落であったことがわかっています。滑石製子持勾玉は、高野遺跡の南西側台地縁辺部の遺物包含層(土器等が流れ込んで溜まった土の層)から出土しました。この包含層は、断面がⅤ字状に見え、台地縁辺部を巡る溝の可能性も考えられます。

藤本さん

推しコメント

子持勾玉とは、大型の勾玉の表面に勾玉状の小さな突起があるもので、主に滑石や碧玉で作られています。このような風変わりな子持勾玉は5世紀前半から7世紀末ごろまで各地で出土しています。

高野遺跡の子持勾玉は、背面に4個、両側面に各5個、腹面に2個の径16個の突起が見られます。柔らかく加工しやすい滑石製で厚みと重量感があり、一緒に出土した土器から時期は6世紀後半と考えられます。

一般的な勾玉のイメージは、C字形に曲がり、丸味を帯びた先端に穴が開けられたものだと思います。おもに縄文時代から飛鳥時代の遺跡から出土し、材質も、ヒスイ、メノウ、水晶、ガラス、土製、滑石など様々です。これらの主な用途はアクセサリーと考えてよいでしょう。

しかし、子持勾玉は、大きさやその特異な形状から「子持」=「増殖」と捉え、呪術や祭祀に使われたのではないかと考えられています。山口県内では数例しかない大変珍しい遺物です。古墳時代の高野遺跡の人々がどのように子持勾玉を使っていたのか、実物を見ながら想像してみて下さい!

3位 綾羅木郷遺跡あやらぎごういせき稲穂状文様いなほじょうもんよう(得票数:105票)

【 遺跡の場所 】下関市大字綾羅木字岡・若宮ほか
【 時   代 】弥生時代前期後半(紀元前3世紀/約2,300年前)
【 所 蔵 先 】下関市立考古博物館
【 基 本 情 報 】綾羅木郷遺跡は、綾羅木川北岸に細長く延びる丘陵の先端部に位置します。主に丘の上を取り囲む環濠と1,000基を超える貯蔵用竪穴からなる弥生時代の集落域と、前方後円墳と円墳からなる古墳時代の墓域で形成されます。昭和44年3月11日に国史跡に指定されました。この土器は綾羅木郷遺跡の貯蔵用竪穴L.N.4713から見つかった弥生土器の壺です。この壺の大きさは、胴部下半部が失われているため高さは分かりませんが、口径21.4㎝、胴部最大径31.6㎝ほどあります。張り出した胴部上半部には山形文、肩部には直線で区切られた区画に無軸の羽状文、頸部には4本の直線をめぐらせ、その下に植物をアレンジしたかのような文様が描かれています。

奥野さん

推しコメント

みなさんは壺といえば、中に水を入れて花を挿す花瓶のような壺を思い浮かべるでしょうか。しかし、弥生時代は水田稲作の開始とともに土器の種類として壺が出現することから、壺のなかに稲籾を貯蔵していたと考えられています。

綾羅木郷遺跡から見つかる弥生土器を綾羅木式土器といいます。綾羅木式土器はそのかたちの変化からⅠ式~Ⅳ式に分けられますが、この壺は、綾羅木郷遺跡が最も栄えた時期の綾羅木Ⅲ式土器です。この綾羅木式土器の特徴として、壺の上半部にタマキガイなどの貝殻やヘラで、羽状文や木葉文といった幾何学的な文様を多く描くことが挙げられます。

そのなかにあって、この壺の文様は綾羅木式土器には珍しい絵画表現で、茎のような鉤状の曲線の上側に穂のような8~10本の直線が描かれています。私にはまるで、たわわに実って頭が垂れ下がった稲穂のように見えます。

壺の用途として水やお酒などの液体の貯蔵という機能もあります。でも、下関でお米づくりが始まった時期の集落である綾羅木郷遺跡の弥生土器の中で、さらに稲穂状文様が描かれたこの壺は、まさしく「下関の弥生時代を象徴するような壺だと私は思うのです。

4位 下七見遺跡しもななみいせきのガラス製勾玉溶笵せいまがたまようはん(得票数:95票)  ※市指定文化財

【 遺跡の場所 】下関市菊川町大字七見
【 時   代 】弥生時代中期初頭(紀元前2世紀/約2,200年前)
【 所 蔵 先 】下関市教育委員会 菊川教育支所
【 基 本 情 報 】下七見遺跡は、田部川によって形成された低湿地(田部盆地)南側の台地上に位置しています。この遺跡では、弥生時代を中心とした遺構や遺物が数多く見つかりました。その中でも、響灘沿岸部の遺跡から出土した弥生土器と同じ特徴をもつ土器や石器の未製品などが出土した点は、響灘沿岸部との交流があったことや石器生産をしていた集団の存在を物語り、非常に重要です。ガラス製勾玉溶笵(鋳型)が出土した点からも、弥生時代当時の最先端技術を持った専門技術集団がいたことが考えられます。この鋳型の時期については、弥生土器(綾羅木Ⅳ式)が溶笵と同じ土坑から出土しているため、弥生時代中期初頭頃と推定されています。

中山さん

推しコメント

私がオススメするのは、ガラス製勾玉の溶笵(鋳型)です。溶笵は石や土で製品の型を作ったもので、そこに溶かした金属などを流し込んで製品を作っていたと考えられています。同様の手法で、弥生時代を象徴する遺物の1つでもある青銅器なども作られていました。製品は確認されていませんが溶笵の出土から、この場所で生産活動があった可能性が高いことが分かります。

弥生時代のガラス製勾玉の溶笵は、下七見遺跡の他にも福岡県や佐賀県、大阪府などで出土事例が確認されていますが、時期は弥生時代後期に位置付けられています。下七見遺跡の溶笵は弥生時代中期初頭頃と推定されていますが、出土状況が詳細でない部分も多く、同時期の溶笵出土事例が無いことなどから、時期については慎重に検討する必要があります。

ただし、ガラス製勾玉の溶笵が出土した点は注目すべき点で、弥生時代に高度な技術者集団が菊川町にいたことを示すものです。素材や作り方は異なりますが、下関市立考古博物館の体験学習の中にも『勾玉づくり』があります。『勾玉』という共通点から、弥生時代の専門技術集団の姿を感じてみてはいかがでしょうか?

4位 長門国府跡ながとこくふあと土師器足鍋はじきあしなべ(得票数:95票)

【 遺跡の場所 】下関市長府宮の内町
【 時   代 】室町時代(14世紀/約700年前)
【 所 蔵 先 】下関市教育委員会 文化財保護課
【 基 本 情 報 】長門国府跡は長府に位置します。この土師器足鍋は、長門国府跡の中央に位置する忌宮神社地区の井戸跡LW001から出土した資料です。井戸の埋土中からは、土師器の皿や坏、陶器の甕、青磁や白磁のほか、木製品など大量の遺物が出土しました。出土状況から、これらの遺物は一括廃棄されたものと考えられ、出土した土師器の皿や坏は、山口県西部の14世紀頃の土器の年代を考えるうえで、重要な基準資料となっています。

藤原さん

推しコメント

「足鍋」は、鍋底に三脚を取り付けた形をしています。鍋を煮炊きに使用する際には、本来は炉の上に五徳を置き、その上に鍋を置いて火にかけます。ところが、足鍋は鍋と五徳が合体した形状をしているため、直接火にかけて調理ができるアイデア商品なのです。

山口県では、室町時代になると防府市台道などで表面を瓦のように燻した瓦質土器が生産されるようになり、足鍋はその主要な製品として生産されます。瓦質土器の足鍋は、県内の室町時代の遺跡であれば当たり前のように出土する代表的な遺物で、西は長崎県から北は島根県、南は大分県あたりまで広く流通した当時の山口県の特産品だったのです。

さて、ここに展示した足鍋は燻さない土師器の足鍋です。瓦質土器の足鍋が登場する以前のもので、山口県西部や北九州市周辺で流通していた土師器のお鍋に三つの足をつけたものです。この形状の土師器の足鍋は、防府市周辺で生産されるものとは別系統のもので、今のところ下関市域では長府や秋根周辺でしか見られず、その付近で生産された地域限定品のようです。

なぜ足鍋が誕生したのか?、なぜ足鍋は主要な製品となったのか?、こんなにかさばる形のものをどのように大量に運搬したのか?、疑問は尽きません。私は、この土師器足鍋がその謎を解く鍵になる逸品と考えているのです。

6位 筏石遺跡いかだいしいせき六連式土器むつれしきどき(得票数:53票)

【 遺跡の場所 】下関市大字蓋井島字筏石
【 時   代 】奈良時代~平安時代前期(8~9世紀/約1,200年前)
【 所 蔵 先 】下関市教育委員会 文化財保護課
【 基 本 情 報 】筏石遺跡は、吉見沖西方約7 kmの響灘に浮かぶ蓋井島東南岸の海岸段丘に立地し、7年目ごとに行われる蓋井島「山ノ神」神事の舞台として、神霊が宿るとされる「山の神の森」に近接しています。奈良時代を主体とする2層の遺物包含層と2時期の建物柱穴や貝塚、屋外炉等の遺構が確認され、遺跡を特徴づける製塩専用と考えられる土器が出土し、本州西端での古代の塩生産の様子がうかがえます。

濱﨑さん

推しコメント

この砲弾型で内面に布目圧痕のある特異な土器は、最初の発見地から六連式土器と呼ばれます。同様の特徴を持つ土器は、8~9世紀の九州北部から瀬戸内海の臨海部を中心に広く分布し、内陸部の地方官衙(役所)域および、畿内の都城域からの出土が顕著に認められます。

筏石遺跡をはじめとする臨海部の遺跡では、玄界灘式と呼ばれる甕形土器とともに出土することが多く、ともに海水を煮詰め結晶塩を得る製塩土器です。土器製塩による塩の形状は、にがりを残す散状の粗塩とさらなる煎熬による固形の堅塩があり、粗塩は吸水しやすく、時間とともにシャーベット状になるため、完全な結晶塩を得るためには、にがりを焼き切る必要があります。 六連式土器は、この堅塩造り用の土器であり、遠隔地で出土するため、運搬容器でもありました。内面の布目圧痕は、型づくりの土器製作技法によるもので、その意図は内容量の定量化にあると見えます。

古代における塩は、税(調庸塩)として貢納されるものもあり、散状塩には「升・斗」、固形塩には、「顆」の単位が認められます。この点において、法量の規格化は合理的です。また、塩には多くの用途がありますが、固形塩で連想するものに牛馬用の舐塩があります。

古代における駅伝制の導入、牧の設置等、大型草食動物の飼育に伴う塩の需要が六連式土器のような固形塩製作土器の広域分布につながっているのかもしれません。

7位 伊倉遺跡いくらいせき石包丁未製品いしぼうちょうみせいひん(得票数:51票)

【 遺跡の場所 】下関市伊倉本町
【 時   代 】弥生時代前期末~中期前半(紀元前3世紀~紀元前2世紀/約2,200年前)
【 所 蔵 先 】下関市教育委員会 文化財保護課
【 基 本 情 報 】伊倉遺跡は、川中平野の南縁部、火の見山の北~西南麓に位置します。弥生~古墳時代の遺構としては、多くの竪穴住居跡・貯蔵用竪穴・埋葬跡が確認されています。伊倉遺跡(下川地区)からも弥生~古墳時代の多くの遺構や遺物が確認されました。…が、この作りかけの石包丁は、残念ながら…いや幸運にも…調査地外の地表面で採集されました。調査地は直前まで畑地として利用されていたので、畑地あるあるなのですが、耕作に邪魔な石ころは、ポイっと端っこに捨てられたのでしょう。採集品ですので時期は不明ですが、下川地区の調査で出土した弥生時代の遺物の時期から前期末~中期前半と推定できます。

太田さん

推しコメント

ただの石ころではありません。石包丁といえば、教科書にも登場する弥生時代を代表する磨製石器で、包丁のように刃部が研ぎ出され、紐を通すための穴が2か所あけられているものが多いです。…が、この作りかけの石包丁から、その“作る順番“を知ることができます。

片面は、弥生人が打ち割って作った面で、裏面はほぼ加工されていない自然の面です。形は全周を石包丁っぽく打ち欠いています。中央上寄りの2か所を丸く浅くくぼませています。…ですので、これを作った弥生人は…手ごろな大きさの自然石を、荒く割り、形を整え、くぼみをつけて…なぜかこの作りかけで作業を中断!?…完成までに、石の錐で本格的に穴をあけたり、砥石で薄くして刃を研ぎだす作業が残っていたのに…。

怪我をした?疲れた?飽きた?それとも石器作り名人に「こげーな分厚いもん、穴あけ・研ぎだしはおおごとじゃっ!」って怒られた?…真相は闇の中ですが、下関は石包丁作りに適した石材に恵まれた地域であるが故の出土品といえそうです。

8位 塚の原遺跡つかのはらいせき石杵いしぎね(得票数:49票)

【 遺跡の場所 】下関市大字石原字下岡
【 時   代 】弥生時代終末~古墳時代初頭(3世紀/約2,000年前)
【 所 蔵 先 】下関市教育委員会 文化財保護課
【 基 本 情 報 】塚の原遺跡は鬼ヶ城山地の麓から南に緩やかに下る標高10~40mの洪積台地上に立地し、遺跡の南側は綾羅木川が形成した沖積 平野が広がっています。遺跡は古くから確認されていましたが、本格的な調査が行われたのは平成5年以降です。遺跡内では3度の発掘調査が実施され、石杵は平成11年の調査で出土しました。この時の調査では、竪穴住居19棟をはじめ貯蔵穴や溝など、弥生時代中期~古墳時代後期の遺構が確認されました。塚の原遺跡の東方に接する石原遺跡でも弥生時代終末から古墳時代初頭の竪穴住居が14棟確認され、地形的にも連続することから、山麓一帯で断続的に集落が形成されていたことが分かっています。

松永さん

推しコメント

原始・古代の人たちは、土器や埴輪をはじめ、死者を埋葬する棺の内面も赤く塗ったりしています。また、『魏志倭人伝』には、倭人は赤い顔料を身体に塗っていたと記されています。

このように、いにしえより赤は太陽や火に通じる神聖な色とされてきました。赤い顔料には辰砂(しんしゃ)、ベンガラ、鉛丹(えんたん)があり、特に辰砂は朱と呼ばれ、不老長寿の秘薬としても使用され、珍重されてきました。

石杵は石皿と共に使用し、辰砂を粉にして朱を精製するための道具です。この石杵は、その形状からL字状石杵と呼ばれ、近畿地方より西の弥生時代中期から古墳時代の遺跡より出土しています。円盤形の礫や自然石を一部加工して勾玉状にした形状のものが一般的ですが、本資料は全体を加工して握りやすくしている点で極めて完成度が高い製品です。 この石杵の磨面は、かなり使い込んでいて朱が付着しているため、集落内で朱の生産を行っていたことを示す貴重な資料です。

原材料となる辰砂は遠方から持ち込まれたのかも知れませんが、近くにまだ発見されていない水銀鉱床が眠っている可能性も残されています。

9位 二刀遺跡にとういせき木簡状木製品もっかんじょうもくせいひん(得票数:39票)

【 遺跡の場所 】下関市豊北町大字阿川字二刀
【 時   代 】奈良時代後半~平安時代前半(8世紀後半~9世紀前半/約1,200年前)
【 所 蔵 先 】土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム
【 基 本 情 報 】二刀遺跡は、阿川ほうせんぐり海浜へと注ぐ沖田川左岸の狭い海岸低地に位置します。この荷札状木製品は、5つの堆積層に分けられる遺物包含層の最下層第5層から出土しました。各層とも弥生時代から室町時代の遺物が混ざり込み、まとまりもないので、この製品の詳細な時期は不明ですが、出土した須恵器のありようからは8世紀後半から9世紀前半の可能性が最も高いと推定できます。

小林さん

推しコメント

まずは、この展示品を観察してみましょう。サイズは最大長20.2㎝、最大幅4.6㎝、最大厚1.0㎝で形状がほぼ残ります。上端は山形に切断され、その表裏には細かい刃入れの痕がみられます。下端は欠けていますが切断部はわずかに残ります。短冊形で上部左右をくぼませる形状は、運搬物資にヒモでくくり付ける「荷札木簡」に該当します。なので、木簡としてよさそうですが...。
 しかし、学術的には「木簡」とすることはできません。木簡とするには厳密な定義があるからです。その定義はいたって単純。文字が確認出来れば木簡、そうでなければ木簡状木製品です。実はこの遺物、出土時にはわずかに墨痕がみられたとのことです。でも、現状では残念ながら確認することはできません...。だから、悔しいですが「木簡」とは呼べません(T-T)。もしも文字が残っていたのなら、この遺物の価値は一層高まったことでしょう。そこにどのような記載があったのか気になって仕方ありません…(T-T)。
 でも!本来は「木簡」だったはずですし、このような遺物が出土したこと自体が重要です。市内の木簡出土例は、長門国府跡に集中し市域南部にかたよるなかで、市域北端の地での文字文化の存在を浮き彫りにします。当時、文字を使用したのは役所や寺院の人々…ということで、より詳しく知りたい方は、当館の受付前の木簡体験コーナーをご案内!100円で木簡体験ができますよ!

10位 有冨中尾遺跡ありどみなかおいせき土師器坏はじきつき(得票数:36票)

【 遺跡の場所 】下関市大字有冨字中尾
【 時   代 】室町時代後期~江戸時代前期(16世紀中頃~17世紀前半/約450年前)
【 所 蔵 先 】下関市教育委員会 文化財保護課
【 基 本 情 報 】有冨中尾遺跡は川中平野の北側にある丘陵の東端部に位置しています。竪穴建物跡14棟や土坑墓54基などが見つかったことで、弥生時代終末~古墳時代初頭に集落が営まれ、室町時代~江戸時代に集団墓地として土地利用されたことが分かりました。墓からは葬られた人物への副葬品とみられる土師器の坏が数多く出土しました。

推しコメント

ここでは、そのうちの2点を選んでイチ推したいと思います。

副葬品は当時の埋葬習俗を知るうえで重要ですが、墓がつくられた時期がわかる資料としても大切です。なかでも土器は「年代のものさし」といわれるほど、その形の変化を見極めることで、遺跡の時期の決め手となる重要な資料となります。副葬品の示す時期が有冨中尾遺跡の調査担当だった私を助けてくれたことに感謝の意味も込めて、土師器坏をイチ推しします。

ここに展示した2点の土師器坏のうつわの深さに注目してください。中世の土師器の坏は時代が新しくなるにつれて深さが浅くなり、その形状が”皿”に近づいていきます。その視点で見ると、展示した2点のうち、より”皿”に近い形のものが新しく、坏の形を残すものが古いと判断できます。

このような変化に着目して墓ごとの土師器坏の特徴を見極めていった結果、一見すると無秩序に分布しているようにみえた墓に3つのグループがあり、墓地の形成途中で規則的な墓の配置がなされたことや墓の形に違いがあることがわかりました。

土器は多くの遺跡で出土するので決して珍しい遺物ではありません。それでも、私にとって有冨中尾遺跡の土師器坏は、集団墓地の特徴を考えその成り立ちを明らかにするうえで、欠かせなかった思い出深い土器なのです。