下関市川中・安岡・勝山地域には全国的に知られたものをはじめ、多くの遺跡が分布し、私たちに地域の豊かな歴史を語りかけてくれます。
「史跡の道」は、地域の遺跡とめぐりあう喜びを味わうとともに、四季折々の自然とふれあうことによって、文化財の大切さを理解していただこうと開設したものです。
さあ、悠久の時間旅行さながらに、原始・古代の大昔に思いをはせて「史跡の道」の探訪にでかけてみましょう。
※史跡の道ルートマップは下の画像からダウンロード(PDF)できます。
「史跡の道」の代表的な遺跡と施設
① 梶栗浜遺跡(国史跡)
梶栗浜遺跡は、弥生時代前期の終わりから中期の初めの頃に、当時の海岸沿いの砂丘に築かれた埋葬遺跡ですのよ。大正2年(1913)に長州鉄道(現在のJR山陰本線)をつくる際に、砂丘から発見された石の棺の中から銅剣2点と銅鏡1点が出土したんですって。
このとき見つかった多鈕細文鏡と呼ばれる朝鮮半島で製作された青銅の鏡は、国内初の発見だったのよ。今は東京国立博物館の所蔵品となっていますわ。それから、この多鈕細文鏡の文様デザインは、下関市立考古博物館入口の円形広場のデザインにもなっているから、ぜひ見に来ていただきたいわ。
昭和32年(1957)と同47年(1972)に下関市教育委員会がおこなった発掘調査で、ここが山口県響灘沿岸の弥生時代の墓制や朝鮮半島との交流を解明する重要な遺跡だということが分かったのよ。歴史的に重要な意義を持っているとして、昭和55年(1980)3月14日に国の史跡に指定されたのですわ。
近年では、梶栗浜遺跡がいとなまれた標高4mの弥生時代の砂丘上のお墓を超えて、津波・高潮によって海から多量の土砂が押し上げられた堆積物(ウォッシュオーバー堆積物)が見つかっていて、高波により梶栗浜遺跡の一部が削られた可能性が指摘されていますのよ。
② 綾羅木郷遺跡(国史跡)
綾羅木郷遺跡は、響灘沿岸にある山口県を代表する弥生時代の集落遺跡なほ。
この遺跡は、西日本で最大規模の拠点的な弥生時代の集落として明治時代から知られていて、これまでの発掘調査で1,000基をこえる貯蔵用竪穴と呼ばれる穴倉や集落をめぐる濠が確認されちょるよ。この貯蔵用竪穴と濠の存在がこの遺跡の大きな特徴なんやけど、実はまだ竪穴住居は発見されてないんちゃ。
貯蔵用竪穴や濠からは、多量の弥生土器や石器をはじめとして、炭化した穀物や果実、魚骨や貝殻、獣骨なども発見されていて、下関市立考古博物館で展示されとるんよ。なかでも日本で初めて発見されてこの遺跡のシンボルとなっている「土笛」や山口県の弥生時代の顔表現として一番古い「人面土製品」は一押しっちゃ。
そうそう、ちなみに綾羅木郷遺跡から出土する弥生土器は地域ならではの姿かたちをしていることから「綾羅木式土器」と名付けられてて、山口県の弥生時代を代表する顔になっちょるんよ。
綾羅木郷遺跡はね、市民・研究者・行政が一体となって調査と保存運動が行われた遺跡としても有名で、1960年代の産業開発をとるか遺跡保存をとるかという状況を生み出した遺跡なんよ。そして、昭和44年(1969)3月11日に異例の緊急指定により国の史跡に指定された遺跡としても知られとるんよ。
響灘沿岸の土井ヶ浜遺跡や中ノ浜遺跡、梶栗浜遺跡は墓地の遺跡として有名やけど、綾羅木郷遺跡は弥生人の暮らしを今に伝える遺跡として知られとるよ。
③ 若宮古墳群
「史跡綾羅木郷遺跡」の西端は、響灘を見渡す台地の尖端にあたり、弥生時代中期から古墳時代には墓域としても利用されていたのであ~る。
そこには、複数の石棺を持つ墳丘墓や、箱式石棺をを持つ、全長39.7mの前方後円墳である若宮1号墳など、6基の古墳が築造され、古墳群を形成しておるのだ。
このうち、若宮1号墳の発掘調査では、墳丘から後円部に死者を葬るための複数の板石を組み合させた石棺が粘土で覆われた状態で埋め置かれておったのだ。石棺の中からは、人骨の破片とともに、硬玉製勾玉・碧玉製管玉、鉄剣・鉄刀・鉄斧が出土したのであ~る。
また、若宮3号墳は墳丘の形は分からないのだが、発掘調査では、長方形の区画をもうけて板石を組んだ石棺に死者をおさめて盛土した状況が確認されたのであ~る。そして、その石棺からは、30歳前後の男性とみられる人骨が出土しておるのだ。
いずれの古墳も古墳時代中期頃と考えられておる。
若宮古墳群は「史跡綾羅木郷遺跡」の一部として国史跡に指定され、現在では遺跡公園として市民の憩いの場として親しまれているのであ~る。
④ 下関市立考古博物館
史跡綾羅木郷遺跡に隣接する「史跡の道」の中心施設だよ。周辺遺跡を含めて、下関市域の弥生時代から古墳時代を中心とした考古資料の展示や体験学習、講演会などをおこなっているよ。「史跡の道」探訪のガイダンス施設としても活用できる考古学を専門とする博物館だよ。
考古博物館のイロハは、この公式ホームページから知ってもらえたらうれしいな。
⑤ 上の山古墳
一説には全長100mを超える前方後円墳ともいわれる、古墳時代後期(6 世紀前半)の古墳であ~る。
明治42 年(1909)、綾羅木川北岸域の有冨、延行、郷、引田などのお宮をまとめて川北神社が造られた際に、古墳の存在が明らかとなったのであ~る。
神社の造営により残念ながら古墳の形状は分からなくなっているのだが、6世紀の横穴式石室と予想される石室から発見されたとみられる副葬品の中には、馬具の一種の鈴付f字形鏡板、太刀の取っ手に付けた装飾品とされる金属製三輪玉のほか、六鈴鏡(鈴付の鏡)、鈴釧(鈴付の腕輪)や瑪瑙製の勾玉、硬玉製の管玉、ガラス製の小玉などの装身具が今に伝わっているのであ~る。このうち、鈴付f字形鏡板は山口県初の出土事例なのだ。
これらの出土品は現在、東京国立博物館で保存されており、考古博物館ではその忠実な復元品が展示されているのであ~る。
⑥ 仁馬山古墳(国史跡)
瓢形(ひょうたん形)の古墳として明治35年(1902)発見された古墳なのであ~る。その後、大正10年(1921)の現地調査によって仁馬山古墳と名づけられたのであ~る。墳丘の形状から、地域で最も古い前方後円墳として平成3年(1991)5月15日に国の史跡に指定されたのだ。
平成17~20年度にかけておこなわれた発掘調査により、推定される長さが6.2mもある長大な割竹形木棺を粘土で包んだ粘土槨が後円部下に存在することが確認されたのであ~る。この棺は盗掘をまぬがれておるため、中にはおそらく当時の最先端の品々が副葬されていると考えられるのであ~る。
古墳時代前期(4世紀後半)に築造されたとみられる仁馬山古墳は、全長74.8mの山口県の西部域で最大規模を誇るのだ。発掘調査の結果、後円部径47mの墳丘構築の具体的な方法や円筒埴輪や壺形埴輪の出土など、大和王権との関係性が強い古墳であることがうかがえるのであ~る。
現在では、古墳周囲の雑木が刈り払われて南側の平野部からその姿を見通すことができるのだ。山口県下の数ある古墳のなかでもとりわけ前方後円の古墳の形がよく保たれている古墳の姿をぜひ現地で見てみるのであ~る。
⑦ 延行条里遺跡
綾羅木川の下流域に広がる肥沃な平野を、水路や畦畔により碁盤目状に整然と区画した、古代の条里制に始まる土地区画を残す遺跡として知られているんだよ。延行条里遺跡という名前もこのことに由来するんだ。
近年では、ほ場整備や区画整理により古代の条里制を踏襲した地表の景観は失われつつあるんだけど、地中には古くから継続して維持された畦畔や水路等の遺構が今も残っていることが発掘調査で確認されているんだ。その遺跡の規模は170ha以上、福岡ドームで例えると23個分以上の面積になるよ。
でもね、この遺跡の始まりは旧石器時代までさかのぼることができて、その後江戸時代まで、水田づくりに関係する遺構を中心にさまざまな遺構や遺物が出土しているんだ。条里制が形づくられる奈良時代以前のこの遺跡のことについても、少しだけ紹介しておくね。
【旧石器時代】旧石器時代後期とみられるナイフ形石器や剥片尖頭器、石刃縦長剥片なんかがみつかっていて、詳細は分かってはいないけれどこの遺跡周辺が旧石器時代から人々の生活の舞台とされていた可能性があるんだ。
【縄文時代】縄文時代前期や中期の土器がパラパラと見つかっていて、前期から縄文人の活動があったことがうかがえるんだ。だけど、しっかりとした足取りは後期から晩期にかけて。この時期の土器や石器が多くみつかっているんだ。縄文時代後期から晩期は弥生時代の本格的な水田稲作農耕が始まる黎明期、ちょうど夜明け前の時期には綾羅木川沿いの地表の少し高い微高地を選んで縄文人が土地利用していたことが分かってきているんだ。
【弥生時代】弥生時代前期から後期にかけての土器や石器が多く見つかっていて、綾羅木川北側の綾羅木郷台地や綾羅木川南側の伊倉丘陵で弥生集落が営まれていたことを教えてくれるんだ。そして、そこに暮らしていた弥生人が綾羅木川沿いで水田稲作をおこなっていたことを示す水田に関係する遺構も見つかっているんだ。
⑧ 観音堂古墳
平成21 年に市道有冨・延行線の道路改良工事に伴って発掘調査が行われたんよ。見つかった石造りの部屋は、入口が南に開く横穴式石室なほ。
石室の大きさは幅2.3m、奥行き2.8mで、おとな三人が埋葬できる空間をもっていたことがわかるっちゃね。石室の天井は後の時代に壊されたけぇ、もともとの形は残ってなくて高さはよくわからんのやけど、幸いにも副葬品はちゃんと残されとったんよ!
副葬品にはね、鉄刀、鉄鏃とかの鉄製品やガラス製の小玉、瑪瑙製の勾玉や水晶製の切子玉といった玉類が1,300 点以上も出土したほっちゃ!
観音堂古墳の造られた時期は、石室のつくり方や出土品の種類なんかから古墳時代後期(6世紀後半)と考えられとるんよ。
観音堂古墳は、発掘調査が行われたあと、本来の場所から少し南側の「史跡の道」沿線に移築されて、展示されちょるんよ。
⑨ 秋根古墳群(1号墳・2号墳)
秋根1号墳は横穴式石室をもつ直径10 ~ 15mの円墳ですのよ。明治20 年(1887)頃に秋根八幡宮を建て直した際に墳丘の一部が削られて、石室の中から鉄製の武器や馬具、玉類なんかが発見されたと伝えられているのですわ。昭和54年(1979)8月7日、下関市指定文化財(史跡)に指定されていますわ。
石室は西に向けて開いていて、天井に近くなるほど小さな石材をドーム状に積み上げられているのです。そんな石室の奥壁(石室の一番奥の石積みの壁)や側壁(石室の側面の石積みの壁)には、ベンガラと思われる赤色顔料が塗られているんですって。
秋根2号墳は、もともと秋根1号墳から南に約50m付近の田んぼの中に所在していましたのよ。昭和50年(1975)に山陽新幹線を通すための土地の区画整理にともなって、下関市教育委員会が発掘調査を行っておりますわ。現在の2号墳の位置は、調査後に1号墳の近くに移築展示されたものなのですわよ。この2号墳から出土した鉄製の武器や馬具、石製の勾玉や切子玉といった装身具は、下関市立考古博物館で展示されていますわ。
秋根古墳群は、平安時代前期の有力者居館や豊浦郡衙とも目される秋根遺跡の一角を占めておりまして、古墳時代後期(6世紀)の綾羅木川流域を掌握していた首長層の古墳の可能性がありますのよ。